1-3)史上最大の作戦?

 
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(在りし日、「ニコイチ」作業中・・・)
 先日、車を手放しました。
 このブログ表題でもあるイタリアンカー、国内最終登録(=新車)で購入以来20年16万キロにわたって使い馴染んだ愛車、アウトビアンキY10です。実はこの2年程、乗ら(れ)ずに放置していました。
「もう無理」
なことはとっくにわかっていましたがズルズルと・・・。ようやく決心がついたのが先月、その気持ちが揺らがないうちに、とY10BBSに書き込みました。

> ところで、哀しいお話ですが・・・
> 遂に自分、Y10諦めることにしました・・・Orz
> 廃車です。
> どなたか実車欲しい、という奇特な方はご連絡下さい。
> ちなみに実車、神奈川県逗子市です。
> エアコンコンプレッサーロックでVベルト破断
> →オーバーヒートで停止
> →放置1年以上・・・と見事なジャンク車両ではあります。
> もちろん無料です。

反応はすぐにありましたが、商談ならぬ「縁談」は不成立。
「やっぱり廃車かあ・・・」
と落胆しつつY10生活向上委員会(なる怪しいグループが存在するのです)「群馬の会長」ことS氏のアドバイスにより欠品パーツのバラ売り
(=オークション出品)をはじめたところ反応は上々。その中でパーツ複数ご希望の方、Y氏にこちらから持ちかけました。
「何なら1台丸ごとお届けしますよ」
永いことほったらかしだった車への罪滅ぼしというか(笑)何か自分へのペナルティがなければ収まらない!と感じてのことでした。ちなみにY氏は石川県在住です。

 神奈川からキャリアカーで陸送、往復1000キロ!

 という「罰ゲーム」の開始です。大急ぎでナンバーを切り、なるべく安いキャリアカーを手配、長距離と不動車の積載に備え「助っ人」も頼みました。元ロールバー屋にしてメカニック、旧くはゴルフポカールレース
SHg - コピー
(若かりし頃の「麺菜家北斗」社長の下働き)、
フェラーリ348チャレンジ
SHg.jpg
(名古屋のH氏のお手伝い)
でも一緒だったU氏です。急なお願いにもかかわらず快諾して頂きました。
 石川県は自分にとって未踏の地です。ルートも不案内ゆえ、飯山の
くるま工房やまもと山本社長にアドバイス求めると
「遠回りでも、遅くなってもいいからウチへ寄って休んで行け」
とのありがたいお申し出が。
 こうした回りの方々のご好意に甘えて今までやって来れたことを改めて感じました。感謝です。

 さて土曜日夕方、仕事帰りに会社近くでキャリアカーを引き取ります。
 17967s1.jpg
結構新しい、ピンシャンした車でした。
 そのままY10の鎮座する自宅へ。U氏とは自宅近くの体育館前で待ち合わせ、自宅前は狭いので積み込みもそこで行います。合流後挨拶もそこそこに氏の車で体育館から自宅へ。自走不能なY10を車庫から引っ張り出し
(思えばここに収めた時もU氏のヘルプが・・・)キャリアカーまで牽引します。荷台へはウィンチで。パンダ程ではありませんが車重850キロの軽量車
(1トン以下の車はすっかりなくなりましたねえ)楽々です。積載後2台連なってU氏宅へ。氏の車をしまい即出発です。
 なんだかんだで夜8時、第三京浜→環8→関越、で飯山を目指します。食事はコンビニおにぎり、本日中には着きたい所です。特に渋滞もなく順調、関越に入ったところで自分、意識が・・・難所は全てU氏にお任せしてしまい(汗)気付くと飯山でした。面目ない・・・。
 予定通りさほど深夜にはならなかったもののその晩は早々に就寝しました。なにせ共に30年来の友人同士。ほっておけば朝までしゃべっていたことでしょう。
 翌朝はシャワーだけ浴びさせてもらって出発。朝食はSAで。お昼頃到着を目指し北陸道を走ります。日本海側を走るのは2度目30年振り(!)です。西に向かっているのに
「右側に海が広がる風景」
は新鮮でした。すっかり夜の運転が苦手になってしまった自分、日中は全てハンドルを握ります。到着直前にY氏より連絡があり、Y10で迎えに来て頂けることに。何を隠そう走っている自分の以外のY10、初めて見ました(笑)Y氏宅で自車を下ろし、ひとしきりY10談義の後、昼食へ。氏の黒いY10で移動です。意外な程度の良さと(失礼)当然ですが「自車とのそっくり振り」に驚きました。
 常々車の個体差というものは結構大きい、と考えてきましたが
「実はそれほどではないのかも・・・」
認識を改めなければならないかもしれません。

 さて昼食は今回の旅の最大のお楽しみ、北陸の海の幸、寿司です。鮮度は抜群で歯応えも素晴らしく、ノドグロ、ガスエビ等初めて食べるネタも種々堪能、大変美味しかったです。グルメブロガーではないので画像はありません。

 ほぼワンタンク使い切った(!)ので給油後、再び飯山へ戻ります。道中、山本社長より
「途中、拾っておくれ」
とのTel.があり、市内へ。飯山市街当日はお祭りで到着時には山本社長、既にLHMならぬアルコールが廻っており(笑)乗ってきたシトローエンBXは置いていくとのこと。
「何言ってんの。キャリアカーなんだから、積んで帰ろ」
手早く自動車窃盗団(!)のようにBXを積み込み、やまもとガレージへ。BXを降ろすと別の車(=次期FX)を積み込みます。ここ飯山が遠距離運転の中継地なのはもちろんですが、帰路の立ち寄りの本当の目的はこの車のお持ち帰り♪にあったのです。
「休んでいくついでに積んで行け!冬の間こっちは雪で乗れないから、乗ってていいよ」
山本社長の重ねてありがたいお申し出にこれまた乗った、という訳です。
 そして翌朝午前4時東京へ向け出発。U氏は当日10時までに出勤しなければなりません。そんなギリギリのスケジュールを押してまでお付き合い頂いた訳で・・・しかも帰路の難所はまたも全部お任せ(!)おまけに濃霧だったそうで・・・もう本当に、足を向けて寝られないって感じです。今度(今日)一席設けますね。
 ということで8時東京着。車を下ろしキャリアカーを返却、牛丼屋で朝食。U氏は電車で職場へ、自分も「新しい」車で帰路に。途中ちょっとしたトラブルがありましたが・・・
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(次期FXは車齢40年!の軽自動車。余計なものまで写ってます・・・) 
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 かくして総走行距離1100キロ超
の1大イベントは痺れるような疲労感と若干の虚脱感を残しつつ、終わりを告げたのでした。

 今回の「旅」の準備中、小林彰太郎氏の訃報が届きました。
 日本の自動車趣味の父、とも言うべき人でした。合掌。

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  1. 2013/11/08(金) 20:07:58|
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1-2) カーグラフィック・ファンクラブ?その2

 
(available)
 唐突ですが・・・特にリクエストもないまま「休載」になっている「CG's」時代のお話、続けたいと思います。

 クラブとしての活動の2本柱が会報の発行と各種イベント、その筆頭は
お正月の「クイズ&ラリー」でした。
 「クイズ&ラリー」とは、指示速度も距離計算もない、
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コマ図
の指定通りに走るだけのラリー、それにチェックポイント現地に行かないと解けないクイズ―例えば「階段の段数」とか―を合わせたもので、「自動車オリエンテーリング」といった趣のゲームです。スピードを競わないため順位はクイズでつけざるを得ず、結構な難問にエスカレートしていきました。
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(この問題は2000年開催の、復活単発イベントのもの)
 問題をロック系に振ったある年はゲスト参加の友人
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KとI(=うちのバンドメンバー)
の圧勝、なんてこともありました。出題の失敗という話も・・・(笑)

 チェックポイントはその前年にオープンしたばかりの「トレンディースポット」例えば羽田空港とかが選ばれました。
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「ビッグバード」
 スピードは競わないといっても「ゼロヨンSS」と称して0発進4メートル(!)をアイドリング・クラッチミートで!というのはありました。時代ですね、ATがほとんどいなかったんですねえ・・・。いきなりボンネット開けアイドリング上げだす奴も・・・(笑)
 

 お正月以外の開催の場合はバーベキューをセットにしてました。
 そのおかげで回を重ねるごとに大人数向けケータリングのノウハウが蓄積され、それは今も自分の財産になってます。

 そのほかにも筑波サーキットを借り切っての走行会や富士スピードウェイ・パドックでのジムカーナ
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(それら開催のためJAF公認クラブに)
メンバーによるレース参戦等がありましたが、活動が少々「武闘派」に振れ過ぎた感もあります。
 結局それがクラブの寿命を縮めた、と言えるかもしれません。

 さてもう一方の柱、会報についてです。その編集態度としてはまず、カーグラに心酔する者としてぶっちゃけ「真似」がしたい!ということで・・・
「例のコーナー」撮影会そして新車のインプレッション(!)をやりました。
 創設メンバーのモータージャーナリスト中村氏の尽力で、なんと広報車を借りて、です。一度返却が遅れ問題になったこともありました。出たばかりのMR2のレンタカーを借りてハチロクと連れ立って
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4AG乗り比べインプレッションなんてのもありました。流石に前輪が楽をしているミドシップ。MR2は下手っぴ(=自分)がアンダーを出しても、そこからまだ舵が効く所が印象に残ってます。

 そのほかニューモデル解説やスタイリング論などもありましたがやはりカーグラ編集部からの寄稿は楽しみでした。
 なかでも吉田記者からの一文は、それまでのベストバンドリングカーとしてディーノを挙げる熱く読み応えあるものでした。
RS.png 
(この’73-9月号参照。そう、この号は’73カレラRSとディーノ
246GTという、2大スター共演「大サービス号」なのでした)
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そしてあの白いディーノは当時中村氏在籍の店が提供したもので、よく知っている・・・といった後日談が次号に載るなどVividなやり取りはエクサイティングではありました。ちなみにその吉田記者手書き原稿は未だ手元にあります。
 そしてもうひとつ。伝説の走り屋、ゲイリー・アラン光永
gamp.png
をご存知でしょうか?彼については、福野礼一郎氏の著書
「ホメずにいられない2」
に詳しいのですが、メンバーに彼の知己が居り、その熱い生き様を活写した、福野氏のものとも完全に符号するそのメンバー(O氏)寄稿の文章のリアリティ。痺れるものがありました。
 まだまだ書き足りない所ですが、この位に。

 
 トップ画像はグラフィックス店内でカーグラを見ながらサインペン一発描きしたアストンマーティン。当時凝っていた某ハードボイルド小説の挿絵の雰囲気・・・を狙ってみた一枚。でも、availableったって・・・。
  1. 2013/06/23(日) 11:23:15|
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1-1) カーグラフィック・ファンクラブ?

  
(available・・・?)
 しばらく革ジャン話が続きましたが、それらについてあまり興味のない(泣)
 ZAGATOR氏(=当ブログの有力フォロワー)より

 自由が丘時代(=1-0 へのTooru.A 様コメント参照)のエピソードを!

 という強いリクエストがあり、その頃のお話をすることにしましょう。
 きっかけはCar Graphic 80年12月号
1980-12月号
の巻末近くの色つきページ 「読者のシート」に載った

 自由が丘にバックナンバーが揃いで置いてある喫茶店がオープン

 との情報でした。当時都内在住、既にカーグラ信者を自認していた自分
「これは行かずばなるまい!」
と単騎当時の愛車ヤマハ・トレールDT125M
DT.png
(万沢康夫氏推奨!モノクロス・サスペンション最初期型)
 で通うようになったのでした。

 当時「最も熟読される自動車雑誌」だったであろう
( ↑ そんなデータはない・・・)
同誌への告知の効果は絶大で、都内はもちろん全国とはいかないまでも、広く首都圏から
「我こそはカーグラの熱心な読者、その代表である・・・」
と自負する面々が集結し、夜な夜な熱いクルマ談義、まさに口角泡って感じで「やりあって」おりました。
しかもその蘊蓄合戦(ⓒTooru.A)、場所を深夜のファミレスに移した「延長戦」もしばしば繰り広げられていたのでした。

 自分も「お小遣い」の範囲内で(笑)週いっぺんは顔を出していた所、とりあえず常連として認知され店主Sさんから声がかかりました。
「今度うちの常連さんでクラブを作ることになりました。君もぜひ・・・」
 そして生まれたのが自由が丘「ショップinもみの木」
(=パティオに木があるビル、現存)2Fの喫茶店

 coffee space GRAPHICS 

 を母体とする、狂信的カーグラ信者集団

 motor enthusiasts CG's

 でした。発足に際して
「カーグラを全肯定するような、単なるファンクラブにはしない」
 といった意志表明というか条文(?)もあったように記憶しています。
 これは同誌の特色であった、

 日本の自動車および自動車ジャーナリズム全般への「批判精神」

 を受けてのもので、そこに心酔していた者ならでは、と言えるでしょう。
 逆に今思えば同誌も我々も、欧州産であればオールOKだったかも(笑)
 ネーミングには当時Night fever
がヒットしていたビージーズの影響も?
 というのも同誌の俗称、当時は「カーグラ」が一般的で「シージー」っていうのはほとんど聞きませんでしたから。
 ちなみに当時の表記はスラッシュの入る「C/G」 が一般的、エンスージャストなる語も「外で」使いだしたのは我々が最初、故ナベゾ画伯が「エンスー」と言い出すずっと前(笑)でした。
 また全巻揃いが謳い文句だったにもかかわらず、開店当初はすべて揃ってはいなかったそうです。自分はあまり古い号には興味なかったので知りませんでしたが。

 クラブ発足前にアンケートを書きました。設問の一つに、カーグラ読者歴がありました。自分は6年と書きましたが、これは 1年ほどサバを読んでまして(笑)実際に最初に買ったC/Gはこれ
76-4.jpg 
ですが、既に古本屋巡り(=バックナンバー集め)は開始しており、’75年以降はとりあえず揃ってはいました。この読者歴の記載は、

 古いファンほど偉い

 ということを現わしていて、クラブ全体の空気としても「○○をよく知っている方が偉い!」というのはあったと思います(笑)

 そして事前アンケートは顔写真入り「メンバーズ・レジスター」となって配られました。その小冊子状のリスト、 CG's会報vol.0
vol0.jpg
 はこのあと、'83年3月のvol.18まで「不定期」刊行される同会報
揃い
その原型で、白黒印刷、中綴じの完全手作り。表紙は黒タイル貼りの店内イメージを踏襲、例の「アーパッドミディアム」のロゴはインレタを駆使、その他の文字は、ワープロ普及以前ゆえ全て手書き!
頁
というものでした。 特筆すべきは、この会報には「fron C/G」という頁が設けられている点で、 Vol.0にはかの小林彰太郎御大の寄稿
コバショー
があり、その後も編集部員持ち回りで毎回原稿を戴くなど、C/G編集部とコンタクトはありました。本家本元の運営するCGクラブに先立つ、いわば公認クラブだったといえます。 
 創立メンバーは、とりあえず50名で始めようという会長S氏の意図があったのでしょう、各人50までの会員番号が振られ、自分は34、それを見て
「ティレルの6輪車ね」
P34.png
と思ったものです(笑)当時は一時が万事そんな感じでした(爆)
 
 メンバーにはモータージャーナリストの中村孝仁氏、前述のWorld Famous Nikon F Collector S氏をはじめ、等々力のスピードショップLagspeed主宰、元グランドオート(=レースメカ)O氏、N自動車で辣腕をふるったのち文筆家ともなった板谷熊太郎ことM氏
テクニカルイラストレーターの大内誠氏、著名指揮者のご子息I氏、某ファミレス店長候補にしてのちの
北斗
中華料理店グループ代表K氏、名門ブガティック
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で修行、渡英帰国後ブレシアで活躍ののちくるま工房やまもとを主宰する山本氏・・・と、そうそうたる面々。当然自動車関係者も多くのちに自動車メーカーに入った学生も多数いました。
 そう、件の会報の制作等を担当する「鉄砲玉」クラスは学生が主体。それも近隣と言える武蔵工業大学の学生が絶対多数を占めていました。
 ちなみに自分はメンバー最年少、4輪免許取得年齢にも達しない高校生(!)でした。 このクラブはその後メンバー募集をしなかったので、現在も交流が続くこの仲間うちで自分の最年少は未だ変わりません。


 トップ画像は、その中綴じ会報のピンナッブ()用に描いたParilla Gran Sport
 高校時代はほとんど着彩はやらず白黒のみ、画材はサインペンで健全なものと先が傷んだもの2本を使い分けてました。これは確か下書きなしの一発描き、写真はライダースクラブから、実車は当時見たことはありませんでした。
 ちなみにライダースクラブ

RC.png  
(この号に前述万沢氏によるDT125M激賞インプレの影響で・・・)

とは「2輪のCG」を目指し創刊された「高級誌」でカーグラと並行購読は高校生には経済的にきつかったのを思い出します。


 なにぶん当時自分は「オミソ」に近い状態だったので(笑)
 知らなかったこと、知らされなかったこと、わからなかったこと等多々あり(汗)上記に事実誤認等あったかもしれません。

 関係者の皆様、あのことを書いてくれ、とかあれを書き忘れているぞ、とかそれは違うぞ、とかご意見ご指摘ご鞭撻よろしくお願い致します。

 とZAGATORさま、いかがだったでしょうか?反響があれば続編も・・・?


  1. 2013/03/31(日) 20:15:39|
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1-0) 十字野郎 ≒ ジウジアーロ ≒ ジュージァロ

(available)
イラスト、というと格好良すぎる感じですが自分
絵はずっと、それこそ幼稚園に入る前から描いていました。
その頃はゴジラをはじめとする怪獣ばっかり
GODZILLA
でしたが
オトモダチに「書いて!」といわれ、いい気になってました。
それが今なお続いている訳で
正に三つ子の魂・・・といったところでしょうか。
そして中学に入る頃、例のスーパーカーブームがあり
以降その対象がクルマになりました。
直前にはブルース・リー&空手ブーム

なんてのもあって
その頃はやはりそればっかり(!)でしたが
今思えば
随分人間(と筋肉)を描く練習になったなと感じます。

話をクルマに戻すと・・・そのスーパーカーブームのさなか
世界のスーパーカー群が紹介されるなかで
最初に好きになったのは声♪ じゃなくてm(__)m
ポルシェ・カレラRS2.7

でした。
たった210HPしかないのに
ゼロヨン13秒台なんて、ポルシェってすげえ!
といったところで、いわば同社の質実剛健さ惹かれた訳です。
がしかし一方、元来「かたち」とかオブジェ
BIZX
(どちらも中学時代の、じゃなくて最近の作品。こんなのも造ります…)
リル
が好きなもので
理詰めな感じのするポルシェより
どうしても
華麗なイタリアン・デザインのスーパーカーたちに
靡いていくことは止められませんでした。
それでも質実剛健さを求める心はどこかにあり
スタイリスト氏の赴くまま描かれたエモーショナルな
スーパーカー然としたクルマたちより
どこか抑制の訊いた感じのするデザインのクルマ
が気に入ってました。
そしてクルマに詳しくなっていくと
自分の好みのクルマの多くが、かの
ジョルジェット・ジュージァロ御大

の手によるものだったことがわかってきました。
以来自分は、HNからもおわかりのように
御大の才能にある意味、心酔しています。
画像は趣味のトライアルバイクを駆る若き日('70年代)の御大。
ちなみに「ジウジアーロ」は
CG誌がはじめて御大の名を我国に伝えた際の表記で
これが広く通用していますが、
後にCG誌自身が、こっちの方が実際に近いとした表記が
ジュージァロ・・・ややこしいですね。
御大の作品は
スーパーカーより乗用車寄りの
いわゆるクーペ

に光るものが多いのですが
あえてスーパーカー群のなかから御大の作品中の
マイ・ベストを挙げるなら
デ・トマゾ・マングスタ (トップ画像)
ですね。このクルマについてはゆくゆく!



  1. 2013/01/12(土) 21:22:45|
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